正気だよblog
心配しなくても全部独り言だよ
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- 2010/04/12 (Mon)
04:33 -
絶対の正義はないというのならその言葉自体も疑って然るべき
Category 未選択
他者が自分と同質であることを望んだりはしないので、差異を認識したらその違いを興味深く吟味する。自分と違う感性というのはとても面白いものだと思うんだよ。理解する必要はないの、ただあるがままを眺めるだけ。こちらを呑み込んで歪めるなり従わせるなりしようとしてきたりした時には容赦なく叩き落とすけど。私は違いには基本寛容だと思う。違いを楽しめるだけの器はあるのではないかね。
まあもちろんその違いに対して見下したり侮蔑したりすることもあるけど。その愚かだと思う私の感性と、正しいと思って主張する対象の感性との違いにすら興味深さを覚えるよ。どういう精神構造の違いがあるんだろうなあ、とか、どういう風に育まれるとそうなるんだろう?とか。
私は何事かに対して感情を抱く。馬鹿みたいだ、とか理解できないな、とか否定的な部類の感情も。でもその自分の感情が正しいものだとは思わないんだよな。
絶対に正しいと言えるものなんて何一つ無い、という概念さえ私は疑う。私の脳内は、私の私情以外はすべて仮定で埋まっている。一般常識も物理法則も、全部仮定。自分で知覚できないものは信用しないし、けれど自分の知覚にさえ絶対の信用は置けない。屈折率を少し変えるだけで視覚情報は変化するし、知覚が真に実際に即しているかは分からない。受け取った情報が真であるか?それを断ずることは不可能だ。(そうやって言い切ることも出来ないのだけれども、今は便宜上そう断言する)
自分の知覚は自分にしか分からないものだからね。自分の知覚したものが他人の知覚したものと同じなのか確かめる術は無い。どこかで変換が行われていないかどうかなんて証明出来ないのだから。
でも知覚情報が真かどうかは信用が置けなくても、自分の感情が確かであることには信用が置ける、と私は思う。受け取った情報がどんなものであれ、その情報に対して想起された感情は正しく私であろう。所謂我思う故に我在り。
懐疑主義者ってのも楽じゃないですぜ。
まあもちろんその違いに対して見下したり侮蔑したりすることもあるけど。その愚かだと思う私の感性と、正しいと思って主張する対象の感性との違いにすら興味深さを覚えるよ。どういう精神構造の違いがあるんだろうなあ、とか、どういう風に育まれるとそうなるんだろう?とか。
私は何事かに対して感情を抱く。馬鹿みたいだ、とか理解できないな、とか否定的な部類の感情も。でもその自分の感情が正しいものだとは思わないんだよな。
絶対に正しいと言えるものなんて何一つ無い、という概念さえ私は疑う。私の脳内は、私の私情以外はすべて仮定で埋まっている。一般常識も物理法則も、全部仮定。自分で知覚できないものは信用しないし、けれど自分の知覚にさえ絶対の信用は置けない。屈折率を少し変えるだけで視覚情報は変化するし、知覚が真に実際に即しているかは分からない。受け取った情報が真であるか?それを断ずることは不可能だ。(そうやって言い切ることも出来ないのだけれども、今は便宜上そう断言する)
自分の知覚は自分にしか分からないものだからね。自分の知覚したものが他人の知覚したものと同じなのか確かめる術は無い。どこかで変換が行われていないかどうかなんて証明出来ないのだから。
でも知覚情報が真かどうかは信用が置けなくても、自分の感情が確かであることには信用が置ける、と私は思う。受け取った情報がどんなものであれ、その情報に対して想起された感情は正しく私であろう。所謂我思う故に我在り。
懐疑主義者ってのも楽じゃないですぜ。
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